強いAIの実現方法 ~実践的な作り方~

強いAIの実践的な作り方を検討しています。メイン記事に主張をまとめています。人工知能関係の書評もあり。なお、今後、任意団体として活動してみたいと考えており、手伝ってみたいという方は是非ご連絡下さい。詳しくは、メイン記事の7を参照下さい。

「あなたの知らない脳」を読んだ デイビット・イーグルマン 著

あなたの知らない脳 ~意識は傍観者である
デイビット・イーグルマン著 2012年 早川書房

 「意識」とはなにか、という問いに対し、普通に考えるほど「意識」があなたの行動を決めている訳ではない、という主張をしている。例えば、あなたが右手を上にあげようと思う前から、脳では右手を上にあげよという指示が出ているのだ。意思決定は脳の内部で行われており、「意識」が意識する前から決定が行われている、ということである。ブログ筆者も同感で、会話の際、次に何を喋ろうということを意識する前から、言葉が口をついて出ている、ということも、そのことを表していると思う。

 すなわち、「意識」の及ばないところで、脳が行動を決めているということだが、この本の独自な内容、見解がいくつかあるので紹介する。

・学習結果は無意識領域に任される

 自転車の漕ぎ方を習った時に、最初は苦労するが、いずれ、何も考えずに漕げるようになる。意識の出番は無い。自転車に限らず、テニスラケットの振り方、ヒヨコの雌雄判別等、学習してしまえば自動的にこなせるようになる。自動化は、スピードとエネルギー効率の面で有利である。また、いわゆる脳の可塑性、あらゆることを学習し、自動化していく能力が驚異的であることを示している。

・アルゴリズムは進化でプログラムされている

 何かを美しいと思うかどうかは、例えば異性の場合、お互いに繁殖に適したサインが外観上出ており、そのサインを見て魅力的だなと思うのは、進化の段階でプログラムされている。テストステロンというホルモンの分泌が多い男性はかっこよく見え、エストロゲンというホルモンの分泌が多い女性はスタイルが良く見える。外観を通して、ホルモンの分泌量を見積もって魅力的かどうかを判断している。
 上記はほんの一例であり、進化の過程で、生存と繁殖に適した判断を下せるよう脳がプログラムされており、「意識」ではそのプログラムにアクセスできない。

・意思決定は多数決で行われている

 これは仮説だが、脳内に複数のサブルーチンがあり、それぞれが意見を出すのだが、多数決で最終方針が決まる、というもの。ライバル同士が争って、妥協点が答えになり、代表的な競合は理性と感情だ。競合関係は2者とは限らない。心の民主制、等と表記されている。
 これは、この本で最も有益なヒントになりうる可能性がある。すなわち、フレーム問題を解くにあたり、あーしたらよい、こーしたらよい、という複数のエージェントがあり、エージェント間で協議した結果を解とするならば、フレーム問題のネックとなる無限の検討事項、という問題が解決されるかもしれない。脳内にあるエージェント達の分しか、検討事項が無くなるかもしれない。ただ、この内容は本書では書かれておらず、ブログ筆者の空想である。
 なお、複数のサブルーチンが解決策を見出す方法として、進化的アプローチが挙げられていた。フレーズが印象的なので記録しておく。「進化はあなたより賢い」「解決策を見出し、良いものが見つかったとしても止めてはいけない」。この進化的アプローチで、競合するエージェントに競争させ、常に解を更新していくという説である。

 また、話がそれるが、興味深い話題として、右脳と左脳の例があった。脳梁という組織で両方の脳が結ばれているのだが、ここが切断されると、右脳と左脳が独立して動作をし始め、2つのことが出来るようになった、という症例が紹介されている。また、8歳までなら、どちらかの脳がまったく無くなってしまっても、正常に生きていけるそうだ。右脳と左脳でほぼ同じ機能を有しているということらしい。

・犯罪と脳疾患の関係

 この内容は著者であるイーグルマン氏が最も力をいれている。
 脳腫瘍等で脳に欠陥が生じた結果、社会倫理性などが機能しなくなり、銃の乱射により大量殺人を行ってしまった事例がある。この場合、犯罪の原因は脳腫瘍であり、本人のせいとは言えない。その場合の刑罰の在り方はどうあるべきか、という問題定義だ。イーグルマン氏によれば、現在でも、明らかに疾患が原因である場合は無罪になるケースがある。トゥーレット症候群や夢遊病患者なら、非難に値しないということになり無罪となる。ここで、医療と科学の進歩により、脳の疾患が原因であるということが判明するケースは増えていく、そうすると、本人が無罪か有罪かは、医療と科学の進歩に依存してしまうことになる。そのため、本人が今後修正可能であるかなど、量刑に対しては別の判断基準があってしかるべきではないか、というのがイーグルマン氏の主張である。
 ここでイーグルマン氏が示唆している、犯罪行為の原因を脳あるいは神経疾患に求め、治療しましょう、という内容は、映画「時計仕掛けのオレンジ」を思い出さずにはいられない。問題を見つけ、解決していこうという姿勢は、アメリカ人らしいなとは思う。

 雑ぱくな紹介となってしまったが、「意識」の外で人間の行動が決まっているというのが本書の趣旨である。
 もともと本書を手に取ったのは、前回、エージェントに主体を導入するということを検討していたので、「意識」についての本を読んでみようと思ったからだ。主体の行動は「意識」という形で意識されずに決まっていることが多いということを本書で改めて確認した。「意識」が無くても知的なことが出来るなら、知性を実現するには言語が必要である、という私の認識を改めなくてはならないかもしれない。少なくとも「プログラムされていないことを実行する」のに、必ずしも言語が必須ではないようにも思える。次回、本件について検討を深めようと思う。