強いAIの実現方法 ~実践的な作り方~

強いAIの実践的な作り方を検討しています。メイン記事に主張をまとめています。人工知能関係の書評もあり。なお、今後、任意団体として活動してみたいと考えており、手伝ってみたいという方は是非ご連絡下さい。詳しくは、メイン記事の7を参照下さい。

「人工知能の哲学」を読んだ 松田雄馬 著

人工知能の哲学 ~生命から紐解く知能の謎~
松田雄馬著 2017年 東海大学出版部

  前回ネット記事の感想を書いたが、そこで呼ばれていた松田氏の著書2冊を読んでみることとした。まずは1冊目の感想。良書を読むことができ、感謝している。

 5章構成で、それぞれ特徴ある内容である。
 第1章「人工知能」とは何か
 現在が第3次人工知能ブームにあること、ダートマス会議等から始まる人工知能の歴史を振り返る。ブログ筆者が好感を持ったのは、AIの歴史の一部としてロボット研究を取り上げ、ブルックスが開発した、身体を持ち反射で行動するロボットについてAIの可能性を見ているところにある。サブタイトルにも「生命」とあるように、著者は、生命のメカニズムからAIを俯瞰しようとしており、身体性にも注目している。
 なお、そもそもの執筆動機は、現在の第3次人工知能ブームにおいて、今度こそ人工知能が何でも出来るという風潮に対する警鐘にあるようだ。歴史が繰り返されることのないよう、賢者は歴史に学べ、とのこと。

 第2章「知能」とは何かを探る視点
 個人的にお気に入りの章である。錯覚を例として、物理的な感覚に対し騙されるようにして脳内に内部モデルを構築することで、人間は周囲を認識しているとのことである。また、先天的白内障の患者が手術で視覚を取り戻した時の反応などから、感覚だけではなく自ら動くことも重要で、環境との相互作用を通し自己を構築し、外界との調和的な関係を構築することだそうだ。
 この章で感銘を受けたのは、「赤ん坊がぼんやりとした内部モデル」で認識しているということである。人工知能の問題の一つに「フレーム問題」があり、人間が非常に上手く認識を取捨選択している仕組みが分からないのであるが、この「ぼんやりとした内部モデル」は、フレーム問題を解くカギになるかもしれないと思った。松田氏はその点にはふれていなかったが。

 なお、錯覚については、グレゴリー著「脳と視覚」が詳しい。その本を読んだ限り、錯覚という現象は、脳が騙されているというよりは、脳が両眼の画像データから3次元空間を再構築しようとしているために、実際には同じ長さの矢印を片一方は短く感じたりする、ということであった。内部モデルとは若干異なる気もする。

 第3章「脳」から紐解く「知能」の仕組み
 脳の解剖学的見地から、知能の仕組みにせまる。哺乳類には反射脳と情動脳からなる生存脳と、社会脳とも呼ばれる理性能があること、ミラーニューロンは他者の行為理解であり、そこからコミュニケーションが生まれる可能性、歌の能力が鳥、クジラ類、人間に限られること等、解剖学的見地から示唆に富む提言を行っている。
 
 第4章「生命」から紐解く「知能」の仕組み
 ホタルの群れがシンクロして点滅すること等から、生命においてリズムが重要な役割を担っているとしている。リズムといえば、ファイファーも「知能の原理」の中で、CPGによるリズム運動のアトラクタ収束について言及していた。人間はリズム運動が得意であり、階段を考えずに降りられるのも、CPGにより脊髄からリズミカルな筋肉収縮指令が出ており、ニューロンでアトラクタ状態へ収束されるからである。

 第5章「人工知能」が乗り越えるべき課題
 ここまで、AIにとって生命及び身体が重要であること、環境との相互作用が重要であることについて語ってきた著者だが、実はシンギュラリティ懐疑派であり、強いAIも懐疑派であることが本章で分かった。すなわち、現在の第3次人工知能ブームにおいては、結局は弱いAIであり、このままでは強いAIには到達しないであろうとのこと。その例として、AIが椅子を認識することの難しさを取り上げている。椅子については、次の著書のタイトルにもなっている。

 ここからはブログ筆者の見解だが、ロボットが椅子に座るには、椅子の前に立ち、関節の力を抜いて椅子に体を任せる方法がある。椅子の形状を3次元計測し、全ての関節の角度を計算して、全部の関節の角度がそうなるような軌道を計算して実行する、ということをやるから座れないのだ。力を抜き、椅子にもたれれば、重量を支えられる限り椅子が自然な姿勢をロボットに提供するであろう。これは、ファイファーが「知能の原理」で主張していることであり、知能に身体が必要であることの証左である。
 また、椅子の役割は体を休めることである。立っていると疲れる身体をもったエージェントであれば椅子の意味を理解できるであろうし、逆に、立ってても疲れないなら椅子の意味は理解できない、というのが本ブログにおける主張であり、意味とは外界ー身体ー脳の相互作用である、ということである。本ブログで取り組もうとしているプログラムでは、椅子の意味を理解するためには、身体モデルに疲れを導入することになる。

 松田氏の著書に戻ると、椅子の意味をAIが理解することの難しさを記載しながら、ではどうすれば良いのかについては、「椅子とAIとの「関係」、それによりAIが「物語」に生きること」が重要だが、それを解決する研究は着手されていない、ということになっている。
 椅子についてはブログ筆者も上記のように一家言あり、次の著書において松田氏がどのような解決に至っているか、楽しみである。

 なお、松田氏は本来なら一介のブログ筆者が言及して良いような方では無いと思いますし、この文章に変なところがあれば、それはブログ筆者が松田氏の主張を理解できていないためであろうと思うので、原著をあたられたい。特に、松田氏の文献読破量には圧倒される思いである。ソシュールについて言及が無かったが「意味とは差異である」「認識は言語に依存し、名前を知らないものは認識できない」という思想について、松田氏がどう考えるかも大変興味がある。
 ブログ筆者は、脳メカニズムについて疎いため、本書の3章を足掛かりに、参考文献等で勉強しようと思う。その意味でも、広い分野に渡ってAIに関する知識が俯瞰されている本書は、良書だと思います。