強いAIの実現方法 ~実践的な作り方~

強いAIの実践的な作り方を検討しています。メイン記事に主張をまとめています。人工知能関係の書評もあり。なお、今後、任意団体として活動してみたいと考えており、手伝ってみたいという方は是非ご連絡下さい。詳しくは、メイン記事の7を参照下さい。

未来学者は間違っている 私たちの知能の座は「ゲノム」だった 佐倉 統 を読んだ

 ネットの記事であるが、本ブログでも最も着目している、身体性を取り扱った記事であり、結論に興味を惹かれたので紹介する。著者は、理化学研究所のAIPチームリーダー佐倉統氏。

 勝手にリンクをして良いのか良く分かりませんが、シェアは歓迎だと思われるので、同じ扱いで、問題なしとさせて頂く。

gendai.ismedia.jp


 理化学研究所のAIP(革新知能統合研究センター)というと、政府肝いりで日本の人工知能研究者のエースを投入し、諸外国からの遅れを取り戻そうとしている新進気鋭の組織であり、そのリーダーが身体性に着目されているのは嬉しいことである。松尾豊先生も身体性を今後のキーワードとしており、米国に先んじる分野として、日本においては身体性が注目されているのかもしれない。

 気になったのは結論の、「はじめに言葉ありきではなく、はじめに身体ありきなのだ」というところだ。
 当ブログでは、身体性こそ強い人工知能の鍵であると同じ主張をしている。ただし結論は「はじめに言葉ありき」であり、同じく身体性に着目しながら、ここまで結論が違うのが面白かった。

 佐倉先生の主張は、「今まで、「知能」という概念が対象とする範囲が、あまりにも脳偏重だったのだ。知能は身体と密接な関係にある。いや、むしろ、「知能とは身体性のことだ」と言ってしまってもいいのではないかとすら思う。」とのことだが、これは90年代からブルックスやファイファーが主張していたことである。

 ブログ著者の主張は、身体性の意義は環境ー身体ー脳の相互作用にあり、人間は意味を記号で理解するから、環境ー身体も記号で表現してAIが扱えるようにすれば良い、とうことだ。だから「はじめに言葉ありき」なのであり、脳の記号化では無くて環境ー身体を記号化せよ、ということである。
 「はじめに身体ありき」と言って、ロボットを実空間で動かすことにこだわると、ブルックスやファイファーの辿った道に陥るのではないかと思う。
 ある意味、私の主張に独自性があることは、このブログの存在意義にもなるとは思いますが。私が書いていることは、身体性に注目することは前提で、その際に、環境ー身体は実はソフトウェアでいいのです、ということなので。


 記事の細部を読んでいくと、まず、カーツワイルの議論に誤りがあるとのこと。カーツワイルの、コンピュータには体がないので、人間と異なりいくらでも大きく出来るから超知性ができるという主張に対し、コンピュータにも本体があり、発熱等が問題になるから、カーツワイルは身体性に無頓着すぎる、ということであった。
 身体の意義が、環境と脳の相互作用を司る、と言う意味では、カーツワイルは身体の役割にかまわな過ぎると言えるかもしれないが、佐倉先生のように計算機本体をコンピュータの身体だと言っても仕方ない気もする。計算機の原理は、実はアルゴリズムであり、ハードウェアは何でも良い、という解釈もあるし。

 ボストロノムの「間の技術者がマシン・インテリジェンスを進化させようと試みる場合、進化における自然選択の全過程が、その試みに関わりがあるわけではない」という主張は「断じて違う」とのこと。北に住む猿の毛が長く、南に住む猿の毛が短いのは、ゲノムの知能の表れであるそうだ。私は専門家ではないが、生存に有利な状態が生き残ったのが進化だと思うので、一概に猿の例が知能と言えるかは分からない。

 総じて「こういった進化の過程や環境との相互作用を考慮せずに、カーツワイルやボストロムのように人間の脳の活動による知能だけを考察の対象にするのは、大きな間違いだ。」というように、カーツワイルとボストロムは身体性の重要性を分かっていない、という趣旨である。
 ボストロノムは未読だが、カーツワイルは読んだことがあり、身体性を軽視しているわけではないというか、カーツワイルのはシステム論であり、ブルックスのことも当然知っているだろうから、カーツワイルが議論の対象としていないAI構築論で批判しなくても良いのではないかと思った。


 また、身体性を重視するのは日本の方が得意で背景に文化的な違いがあるとのことで、長い引用だが「AI/ロボット研究においても、身体性を重視したロボットが必ずしも日本の専売特許というわけではない。アメリカでも1980年代後半から、MITのロドニー・ブルックスが、単純だけれども学習能力のあるロボットを積極的に外部環境と相互作用させることで「進化」させるサブサンプション・アーキテクチャを推進し、ロボット研究において一世を風靡した。」と書かれている。
 うーん。日本の人達は、ブルックスとファイファーの本を読んだり訳したりして身体性の議論を学んだのであり、日本の方が身体性は得意だと言うのもやめた方が良いと思う。90年代当時が日本のロボット工学の全盛期だったことは正しいし、また、ファイファーは日本のロボット学者と議論して本をまとめたと書いているので、お互い切磋琢磨したことはあるのだろうと思いますが。
 細かいが、サブサンプション・アーキテクチャはロボットを「進化」させていない、とも思う。


 全体に反論が多い評になってしまった。ただし、もともとの文章がカーツワイル等への反論なので、佐倉先生が反論という言論手法を嫌っている訳では無いと思い、一応公開する。