主張していることを簡単にまとめる。
強いAIには身体が必要であり、そのアプローチとして身体性、あるいは構成論的アプローチがある。
ただし、身体性、構成論的アプローチは実世界でロボットを動かすことに主眼を置いているが、外界、身体ともソフトウェアで再現して良い。実現性に優れる利点がある。
人間は言葉で世界を理解しているのだから、言葉レベルで世界と身体を再現し、AIソフトウェアを複数投入していけば、強いAIへの扉が開かれるであろう。これは有限の努力で出来る。
今までは脳を記号化しようとしていたが、実は、外界と身体を記号化するべきなのだ、人間の知性を再現するためには。
少なくとも、今まで上手く行っていないのだから、試してみる価値は十分あると考える。
外界と身体が知能に必要であることをイメージするために、以下を考えてみる。
真っ白な床、真っ白な空しかない世界で、自分が一人だけ、言葉を習わない状況で置かれてみる。食欲、排せつなどの生理的現象が無いとした場合、何が起こるだろうか。何も起こらないだろう。その人が言葉をしゃべることはなく、車を発明するどころか、棒を道具として使うことも無く、ただただ在るだけの存在にしかならないと思う。
知能には他者を含む複雑な環境が必要であり、また、ものを認識するため、知的活動をするために言葉が必要なのだ。だから、外界と身体を言葉レベルで構築し、その中でAIソフトウェアを動かしてみるのである。
ヨハネの福音書の冒頭に「はじめに言葉ありき」とあるが、まさしく、知性の元は言葉であることが示唆されており大変興味深い。あるいは、ゲド戦記においては、創造神セゴイが真の言葉を話し世界が出来たとされている。筆者の主張は、真の言葉で世界を構築するようなものである。
実際にソフトウェアを作る場合、辞書にある言葉として、例えば友情、努力、勝利みたいな抽象的な概念、社会性を伴う概念も盛り込まなくてはならない。そのため、AI側のエージェントは複数必要であるし、階級社会、雌雄の区別等が必要となる。
同様の主張をしている例を紹介する。
マレー・シャハナンの「シンギュラリティ 人工知能から超知能へ」では、筆者が主張しているのに近い「バーチャルな身体化」という提案をしている。脳、身体、世界もバーチャルで良いということである。ただし、脳側も全脳シミュレーションしているとともに、世界側にも「本物と実際上見分けがつかないほどの高分解能」を要求している。その点、筆者の主張はハードルが低く、より実践的な提案になっていると考える。この違いが生じるのは、ソシュール記号論により、人間による世界の認識が、言語ベースであるというところにある。
さらに言えば、外界-身体ーAIの組み合わせは、実は人類が直面している状況を完全に再現する必要は無い。例えば2次元の世界でも、世界-身体ーAIが存在し、言語活動があり、世界が十分に複雑であれば、その世界に準じた知性が生まれるであろう。既知の知性の存在する状況が、人類の状況しかないため、人類の状況を模擬していくのは良い手法ではあるが、例えば辞書の言葉全てを模擬しなくても、十分に複雑であれば知性は生まれると考えられるし、さらに複雑な、例えば性別が3種類ある世界でも構わない。
ここで分かるのは、筆者が主張しているのは人工生命の手法の一つであるということだ。人工生命は、進化させることで知性が生まれるかと期待されたが、知性の発現には至らなかった。筆者の主張は、外界-身体-AIの組み合わせを用意すればAIが意味を扱えるようになること、言語能力が必要であること等を用いた人工生命の提案でもある。